2020年12月発行

隈 研吾

東京2020のメイン会場「国立競技場」、新装された「GINZA KABUKIZA」(歌舞伎座)、山手線の最新駅「高輪ゲートウェイ駅」……などなど話題作に携わり、国内外の受賞作多数。「ザ・リビエラカントリークラブ(RCC)」併設の「RCCミュージアム」も、この方の作品です。和の伝統を思わせる木を多用したデザインで、世界を魅了する建築家・隈研吾さんに、建築への思い、自然との関わりを語っていただきました。

インタビュー:渡邊華子

建築家

隈 研吾

Kuma Kengo

1954年生。1990年、隈研吾建築都市設計事務所設立。慶應義塾大学教授、東京大学教授を経て、現在、東京大学特別教授・名誉教授。国内外で多数のプロジェクトが進行中。国立競技場の設計にも携わった。主な著書に『点・線・面』(岩波書店)、『ひとの住処』(新潮新書)、『負ける建築』(岩波書店)、『自然な建築』、『小さな建築』(岩波新書)、他多数。

〝和の大家〟を育んだ
横浜での里山体験

― 最先端の建築に、木のテイストを大胆なまでに取り入れて〝和の大家〟と呼ばれる隈研吾さん。その原点に迫ってみたいと思います。
幼少の頃はどのような環境でお過ごしでしたか?

隈: 出身は横浜市です。家は、東急東横線・大倉山駅の近くにありました。今では想像もできないことかもしれませんが、当時の大倉山駅周辺は、あたり一面に田んぼが広がっていました。典型的な日本の里山ですね。かつての横浜市内にはこうした場所が数多く残されていたんです。
そういう土地柄ですから、子どもたちの遊びといえば、田んぼの中でザリガニを捕ったり、山の中で洞窟巡りをしたり、森に分け入って探検したり……。
〝原点〟というなら、日常的に自然と触れて過ごしたことは、自分にとって意味が大きかったですね。
小学校は、田園調布まで通っていました。東横線に乗って北上していくと、だんだん街の風景になっていきます。帰りはその反対で、徐々に里山に近づいていく。大倉山駅に着くと、生き返った気分になったものです。

― 自然の中で癒やされる、という感覚ですか?

隈: そこは子どものことですから、〝癒やし〟というのとは少し違うかな? 里山での遊びは刺激的であり〝学び〟が詰まっていました。
たとえば虫捕り。ただやみくもに虫網を振り回しても、うまくいきっこありません。どんな生態を持っていて、どういうタイミングで狙えばいいのか。毎日のように森に入ってそういうことを研究して、体験として学んでいきました。
学校で共に過ごすのはたいてい同級生で、昼休みに上級生と一緒に遊ぶなんて、めったになかった。でも里山には、近所のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちも来ている。こうした年上の友達から教わることもいっぱいありました。彼らの教えは、学校の授業のように先生から生徒への一方通行じゃありません。共に楽しむことで知識や技術が共有されていく。
大自然の中にあるルールとか、自然と共に生きる上で何が良くて、何かいけないことなのか。そういったことを自然から教えてもらいながら身につけていったように思います。

― 幼少期は里山での遊びに没頭されたのですね。

隈: 当時の子どもたちの遊びの定番といえば、〝秘密基地づくり〟じゃないですか。下校後から夕飯までの間は、近所の仲間たちとずっと里山にいて、木を使ったりしながら、ツリーハウスみたいなものを作ったりしましたよ。
今の子どもたちは、学校以外の習い事や塾も忙しく、また親や大人からの目が行き届きすぎていて、自分たちだけで森に入ることなんてないでしょう? つくづく気の毒だと思いますね。

― 安全は何より大事。しかし、それと引き換えに貴重な〝学び〟の機会が損なわれるのは残念なことですね。

隈: 同感です。子どもの頃の私にとって、森ほど楽しい場所はなかった。私の建築のベースに、そういう思いがあるのは確かですね。

夜光虫と泳いだ相模の海での合宿

― 建築家になると決めたのは、小学4年生の時と伺いました。

隈: はい、1964年。前回の東京オリンピックがきっかけでした。親に連れられて競技会場に行ったとき、国立代々木競技場を目の当たりにして、そのあまりの格好良さに衝撃を受けたんです。建築家という職業があることも初めて知りましたが、丹下健三という建築家が設計したのだと聞かされて、僕もこういう素晴らしい建築ができる建築家になる!と決めて、以来まったくブレずに今日までに至っています。

― 中学・高校は、鎌倉市の名門・栄光学園にお進みですね。

隈: 私が海をすごく好きなのは、今思い返せば、中学からですね。
栄光学園は大船駅から急坂を登った丘の上にある学校ですが、それでも鎌倉ですから、大倉山の里山よりはぐっと海が身近になったんです。週末はクラスメートたちと由比ヶ浜あたりで遊ぶようになったし、夏になると学校行事で海合宿もありました。油壺の先の諸もろいそ磯という小さな湾に学校の合宿所があって、プライベートビーチも同然の場所だったので夜間遠泳の訓練も受けました。
そういう経験を通じて、泳ぎもかなり達者になりました。夜の海をゆっくりと泳いでいた時、一面青く光るものを見たことがあります。夜光虫でした。今もいるのかな?

― 夜光虫を、海を泳ぎながらご覧になったのですか!?

それはすごい体験ですね。相模湾には今も夜光虫が生息しています。天候条件などに恵まれたナイトクルーズでは、船が引く航跡波で夜光虫が光るのを目の当たりにでき、それはそれは感動する美しさです。

隈: 私も先日、ザ・リビエラリゾートクラブのメンバーになりました。またいつか船上から夜光虫を見たいものです。

― 私たちリビエラグループでは、〝大自然と共に心豊かに生きる〟を理念とした「リビエラ未来創りプロジェクト」の一環として、2006年より海洋プログラムを実施し、延べ5900人の子どもたちを迎えています。

隈: 子どもたちに自然と親しむ機会を提供する取り組みは、まさにリビエラならでは、ですね。

建築家修業は旅と議論の日々

― 東京大学建築学科に入学されてからは、念願の建築にどっぷり浸かった生活でしたか?

隈: 旅と議論の日々でしたね。
建築士をめざす勉強というと、製図台に向かったり、小難しい計算をしたり……というイメージがあると思うのですが、建築の勉強の面白さというのは、本や机から離れたところにあると知りました。
建築学科の仲間たちと建築物を見に行くのが楽しくて、日本全国を北へ南へと巡ったものです。
実際の建築物を見て、ああだこうだと議論するんですが、人によって良いと思うものが驚くほどに違う。多様性というものを肌で感じた経験ですが、違うからこそ、相手に自分の感性をどうしたら理解してもらえるかを意識するようになりました。
建築は、建築家のインスピレーションだけで成立するものではありません。どんな建物にも施主様がいて、施主様が思い描くものをつくるのが大前提です。
だからこそ建築家は、言語を鍛えることが大事。相手の思いを聞きとる力と、自分の建築に対する思いと提案を理解してもらう力。つまりコミュニケーション能力です。
私は今でも自分の建築をプレゼンテーションする時は、まずは言葉で語ります。図面や模型はその後。
学生時代は製図や力学計算も勉強したけれど、それ以上に、徹底的に仲間と語り合った経験、言語を操る能力を鍛え、学べたことが、今につながる財産です。

コミュニケーションが
建築家の基礎能力

隈: しかし、コミュニケーション能力というのは、単に口が達者というのとも違うと思うんです。

― それは接客を旨とする私たちリビエラの仕事でも痛感することです。

隈: これも院生時代の思い出ですが、サハラ砂漠を横断する現地集落調査のプロジェクトを組んだことがあります。アフリカ特有の野趣がピカソの芸術のベースになっているとか、大好きなジャズもアフリカにルーツがあると言われていたので、もともとアフリカの文化には憧れがあったんです。どうしてもアフリカ建築を見に行きたくて、教授を焚き付け、いろいろな企業を回ってスポンサーになってもらいました。

― 資金集めもご自分で?

さすがのバイタリティ&コミュニケーション能力ですね。

隈: 今ほど国際情勢がガタガタしてなかった時代だからこそできた冒険だと思っています。今なら大学がストップをかけていたでしょう。
紛争地帯に飛び込んだわけではないけれど、それでも、何も知らない若造がまったくの異文化地域に入ることにはリスクが付き物。でも、当時は危ないというよりは楽しいが先行していましたね。それこそ言葉なんかさっぱり通じない。そういう人たちとどうやって仲良くなるのかも楽しみのひとつでしたよ。

― コツがあるというお話ではなさそうですね。

隈: まったく関係ない世界の人たちの中に飛び込んで、心を掴んでいくためのコミュニケーション能力は、建築家にとっては一番大事ですね。私たちは、知らない街のクライアントから依頼されて、工事もその街の人たちに請け負ってもらうわけだから。建築という仕事のベースには、それがあると思いますね。

隈 研吾

Phillip Johnsonという有名な建築家との写真でコロンビア大学に行っていたころ(おそらく1985年頃)

建築は音楽に近い
ジャズに心揺さぶられる

隈: 建築は立体ですから、芸術分野では彫刻と似ていると言う人もいますが、私は音楽に近いと感じています。学生の頃はピアノを習っていたし、ジャズが特に好きです。その頃からの仲間には、売れっ子のプロになった人たちもいて、音楽の仕事を一緒にやろうと話し合ったこともあります。
優れた建築には、人を快くさせ、心を揺さぶる音色があり、リズムがある。音楽も建築も同じなんです。

客員研究員としてアメリカ中を歩く

― 建築家として独立される前には、米国コロンビア大学の客員研究員をお務めでしたね。

隈: 自分の仕事を始める前に、ニューヨークにだけは行っておきたかった。コロンビア大学は、ハーバードやイエールと並んで、当時の建築教育の世界的中心のひとつでした。
客員研究員というのは何をせよとはあまり言われない立場だったから、アメリカ中の建築を見たり、建築家に会ったり、新興ディベロッパーを訪ねたりしました。「これからの建築はどうなるのか」を多くの人たちと会って話しましたね。

隈 研吾
隈 研吾

すべての作品に愛着がある

― 2年間の客員研究員生活を終えて帰国。1990年、隈研吾建築都市設計事務所を設立されました。以後、国内はもちろん、海外でも、話題の建築を手がけられています。
多くの作品がある中、特に印象に残っているものをあげるとしたら?

隈: いろいろな意味で思い出深いのは、中国・北京郊外の「竹の家」(2002年)ですね。

― 万里の長城のそばに佇むゲストハウス「Great (Bamboo) Wall」ですね。アジアの建築家12名が競作した、デザイン12種・計42棟のホテル開発プロジェクト「Commune by the Great Wall」の中でも、評価が際立った作品とうかがっています。
北京オリンピックの国家CMのロケにも使われ、日本では吉永小百合さん出演の電機メーカーの広告でよく知られていますね。

隈: あれが中国での初仕事。あの国では、派手めというか、シックな感じとは正反対の建築が多いので、受け入れられるのか心配でした。まして、自然の素材にこだわるなんて前例がないと……。
しかし、「これからの中国にはこういう建築が必要だ」と言ってくれた人もいて、クライアントの理解を得ることができました。
今、中国での仕事も多いのですが、「竹の家」がすべてのきっかけになりましたね。

― 自作のベストをあえてあげると?

隈: それは難しい質問ですね。どれにも愛着がありますから。
ターニングポイントになったといえるのは、栃木県の「那珂川町馬頭広重美術館」(2000年)でしょうか。

― 阪神・淡路大震災で被災した同県出身の実業家が遺したコレクションを、那珂川町が一括寄贈を受けて収蔵。内外装は木、壁は和紙、床は石。地元産の自然素材を用いたこの美術館は、村野藤吾賞はじめ多数の賞を受けています。

隈: 高知県の檮原町という山間の町で、30年間続けている「雲の上の町ゆすはら」プロジェクトもユニークな取り組みです。
一人の建築家が一つの町と30年も関わって、6つもの公共建築が建つというのは、例のないことと言われています。このプロジェクトを通じて、私は改めて、日本の職人の技の凄さを認識しました。

雲の上のギャラリー

雲の上のギャラリー

雲の上のギャラリー

RCCが象徴する
良き時代のアメリカ

― 先ごろ竣工した米国ロサンゼルスの「ザ・リビエラカントリークラブ(RCC)」ミュージアムも、隈研吾作品のひとつです。

隈: 1926年竣工のRCCのクラブハウスは、それ自体が大変素晴らしい建築で、アメリカという国が文化的にいちばん輝いていた大恐慌直前の時代を、象徴する存在だと感じていました。
コロンビア大の研究員時代に、RCCと同時期に建てられた建築物を数多く見て回ったものですが、20世紀初頭の空気を最もよく伝えている建築は、間違いなくRCCです。
そのRCC誕生から今日までの歴史を網羅し、未来につながるミュージアムを―と、渡邊会長にお声がけいただいたことは、私にとっても名誉なことでした。
毀損することが許されない稀代の名建築に、新たなパートを加える作業。その建築が持っているハートをどうすれば凝縮できるのか。木をベースにして、そのリズム感を大事にしながら、RCCが生まれた時代の自由で、しかも人間の生命を感じられる雰囲気というものを、このミュージアムでも表現したい。そういう思いで取り組みました。

日本の〝木の伝統〟は
世界が注目する環境技術

― 木という素材に愛情を注いでこられた隈さんの、今後の活動は?

隈: 環境問題にどう貢献できるかを最も重要に考えています。日本人がいにしえから培ってきた感性や伝統的な建築スタイルと、今日的な環境技術をどうつなげるか。
例えば、庇ひさしを深く出して風を取り入れることや、地域の素材を加工して、その地域らしい建築物をつくるという、環境面にも優れた日本の伝統技術を、世界に向かって発信し伝えていきたい。
私にオファーをする海外のクライアントも、日本建築の環境性能に注目していて、学びたいと思っている人が多くいます。そういう期待に応えられる仕事をしていきたいですね。

― 木へのこだわりという点では、リビエラにはもうひとつ〝宝〟があります。1927年建造の歴史的木造帆船「シナーラ」です。

隈: 100年近く前の船にさらに100年の命を吹き込んだレストアプロジェクトは偉業です。金属に比べて、木材をはじめとする自然素材はもろいイメージもありますが、自然に逆らわずに、木の持つ特性を最大限に活かしていて、かえって力強さを感じます。

― ヨーロッパの伝統的な造船技術の日本への伝承も掲げた「シナーラ復元プロジェクト」では、世界10カ国から招聘した技術者50人のチームに、日本の職人も加えました。チームに飛び込んだ日本人の大工や家具職人は、船については未経験でひたすら学ばせてもらう立場にいたわけですが、シナーラが再び海に浮かんだとき、イギリス人の棟梁が言いました。「日本の職人は素晴らしい。われわれは彼らから多くを学んだ」と。

隈: 日本人は木と向き合ってきた年月が長い。その蓄積は、西洋式の木造帆船でも活用できるということなのでしょう。それぞれの国の伝統技術を持つ職人たちが、協働作業によってお互いの技術を吸収し合えた。
それこそが、シナーラのレストアプロジェクトが築いた最大の宝であり、リビエラの名を後世に遺す業績といえる。素晴らしいことです。

― ぜひ隈さんにも、シナーラに直接触れていただきたいです。

隈: RCCと同じく20世紀初頭にイギリスで建造され、歴代オーナーの想いの詰まった木の温もりがあるシナーラにはワクワクします。
他にもリビエラにはジャズを聴きに行ったり、夜光虫も見に行かないと……ですね。


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