2019年9月発行

山崎 達光

大手食品メーカーの元経営者にして、日本セーリング界のトップ、そして世界最高峰ヨットレース「アメリカズカップ」のチャレンジャー。ビジネスに、ライフワークに、正々堂々、熱く取り組んできたレジェンド的リーダーが、次に挑むのは「指導者育成」。傘寿を超えてますます闊達な、山崎達光さんにお話を伺いました。

公益財団法人 日本セーリング連盟 名誉会長
エスビー食品株式会社 元会長
一般社団法人 日本海洋アカデミー 代表理事

山崎 達光

YAMASAKI TATSUMITSU

1934(昭和9)年東京生まれ。早大卒。大学ではヨット部に所属。大卒後、エスビー食品株式会社に入社し、1983〜1989年代表取締役社長、1989 〜2003年会長。ビジネスのかたわら外洋ヨットレースで活躍し、日本外洋帆走協会理事、日本セーリング連盟会長を務めた。

夏のレジャー体験が
ライフワークに

―― 山崎さんは、五輪代表クラスを輩出する名門・早大ヨット部出身。ご自身も豊富な戦績に輝くアスリートですが、ヨットとの出会いは大学ですか?

山崎: 私がヨットに初めて触れたのは、10代半ばの夏休み。父の会社の社員旅行で訪れた千葉県館山でのことです。浜辺に出ると、小さなレンタルヨットが何隻も並んでいました。波も穏やかな館山のビーチで、心地よい風を受けてスイスイと走るディンギーヨットはとても楽しくて「このまま走っていけばハワイまで行けるのかな」などと少年らしいことを思いながら、夢中で帆を操ったものです。ヨットは毎年夏の楽しみになりました。
職業とは別に、生涯を通じて打ち込めるライフワークを持つことができたのは幸福なことでした。
大学入学と同時に、ヨット部に気軽に入部したわけですが、入ってみたらバリバリの競技者集団で、いきなりハードにしごかれた。
でも、ヨット競技の魅力に取り憑かれるまで時間はかかりませんでした。

―― 大学卒業後、お父上の会社(日賀志屋。今のエスビー食品)に入社してからも、ヨット熱はおさまらなかった?

山崎: 社会人になれば、ヨット三昧は無理。ヨットにうつつを抜かしていたら、あいつは何だということになります。だから私は、仕事もがむしゃらにやってきました。それは会長職を退くまで、ずっとです。
会社員として忙しく過ごしながらも、やっぱりヨットに乗りたくて、わずかな暇を見つけてはマリーナに通いました。父はアマチュアスポーツに理解のあった人で、エスビー食品は早くからスポーツイベントの協賛もしていました。仕事も頑張るならと大目に見てくれて、ヨットを続けることができました。そうこうするうちに手頃な4人乗りの船を見つけた。これなら外洋レースにも出られそうだ……と、何とかお金をやりくりして入手し、「鳥羽パールレース」に出て入賞。どんどんのめり込んでいきました。
以来、仕事もヨットも目一杯。今に至るも家族は呆れています。

トランスパック

「トランスパック」参戦時の貴重な1枚。左端で舵輪をとるのは、石原裕次郎さん。この大スターも盟友の一人だった。ア杯挑戦を決意させたコナー艇長との邂逅は、この後のこと。

暗中模索の連続
アメリカズカップ挑戦

―― 社業に励みつつ、レースの方でも実績を重ねて、ついにはアメリカズカップ(ア杯)挑戦へと続くわけですね?

山崎: ロサンゼルスからホノルル間4000kmのレースで1906年スタートした世界最古の外洋ヨットレース「トランスパック」に参加後、ハワイで休息していたときに、〝ミスター・アメリカズカップ〟ことデニス・コナー艇長が、かの名艇「スターズ&ストライプス」号を駆って練習航海しているところに出食わしたんです。クルーザーに乗っていた私は、思わず、少し距離をとりつつ並走してみたところ、敵わないまでも、引き離されずに走ることができた。ア杯なんて日本のセーラーにとっては「夢のまた夢」だったわけですが、このとき「意外とやれるかもしれない!」と思った。デニス・コナーが「日本人もア杯をめざしていい頃だ」と言ってくれたのも励みになった。これが1985年のこと。以降15年に及ぶ挑戦の始まりでした。

―― 30数年前といえば、日本では、一般の人はア杯のことをほとんど知らなかったころです。

山崎: 国の威信をかけて競う世界最高峰のヨットレースだといっても、日本ではヨット自体がマイナーな存在だから、一般の関心が低かったのは当然のこと。ア杯を憧れのまなざしで見続けてきたわれわれヨット関係者にしても、何から始めればいいのか、実はわかってなかった。すべてが暗中模索でした。

胸を打つ厚情と支援
されど、いまだ道半ば

山崎: この情熱先行の取り組みを通じて思い知ったのは、熱意を汲んで協力してくださる人の有難さです。
動力船では日本の造船工学は世界屈指。でも、ヨットとなると勝手が違い、流体力学や航空工学のエキスパートにも加わってもらうことになりました。実験施設を持つ各大学や民間研究機関にも支援を仰ぎ、船舶関連各社ばかりか、船とは畑違いの素材関連各社にも協力してもらっています。ベースキャンプを置いた愛知県蒲郡市には、大型ヨットを建造するために必要な巨大な艇庫のサポートなど、手厚い応援をいただきました。
スポンサー探しにも奔走しました。各社を訪ねて「ア杯とは何か」「なぜやらねばならぬのか」を訴えることから始める折衝は大変でしたが、92年の初参戦では30社の協賛がついて目標資金を獲得。ところが世界と競うヨット建造に向け試行錯誤を繰り返すうちにいただいた資金は枯渇し、協賛各社に追加支援をお願いすることになってしまいました。あのときは生きた心地がしなかった。
私がチェアマンを務めたアメリカズカップ「ニッポン・チャレンジ」は出場3回(1992年・1995年・2000年)。いずれも準決勝敗退4位。「ソフトバンク・チーム・ジャパン」による2017年の挑戦も4位で、日本はいまだカップに手が届いていません。
私たちの志は、まだ半ばです。

海が燃えた日

ア杯挑戦の経緯を綴った山崎さんの著書(武村洋一氏との共著)
『海が燃えた日』(舵社・刊)

子どもたちを海に導く
指導者を増やすこと

山崎: 今、ヨットの最強国といえば、ニュージーランドです。ア杯参戦でこの国を訪れたときのこと。ハーバーを歩いていたら、小さな船が転覆しているのが見えました。これはいかんと駆けつけたところ、ローティーンの少年がポッカリと水面から顔を出して、「ハァイ」と会釈してきた。ひとりで転覆復原の練習をしていたんですね。彼我の力の差を見せつけられた思いがしました。
日本も海洋国ですが、鎖国をしたせいか、海を怖がる気持ちが強すぎます。学校でも海の事故に気をつけようと教える。子どもたちを守るのは大事ですが、結果として、海辺の街でも船に乗る小学生はごく僅か。
海に出ないから、海の恵みに気づけず、海の環境破壊も実感できない。残念です。スキルのある大人がしっかり見守れば、海は楽しいのに。
ヨットは、誰もが楽しめるものです。ただし、見よう見まねで始められるものではありません。操船のイロハを知らずに水辺に乗り出せば、生命の危機に直結です。
でも、適切な指導者と出会えれば、ヨットは決して難しくない。
つまりヨットを普及させようと思うならば、指導できる人の数を増やすことが、大前提となるわけです。

正々堂々備えれば
怖いものなし

―― この度、リビエラが運営受託している「一般社団法人 日本海洋アカデミー」の代表理事に就任されました。

山崎: 「アカデミーでもうひと働きしないか?」と誘われたとき、年齢のこともあって、一度はお断りしたのです。でも、「子どもたちへの普及啓蒙と並行して指導者育成プログラムに力を入れるアカデミーなのだ」とリビエラ会長の渡邊さんに力説されて、お引き受けする気持ちになりました。未来のセーラーを育む現役世代の大人を鍛えることは、年長者の務めですから。
ア杯への挑戦を物心両面で支えてくださった方の一人が、住友海上火災保険(現、三井住友海上火災保険)の社長を務められた徳増須磨夫さんです。この先達の名経営者から教えられた「正々堂々」という言葉を、私は座右の銘としています。
徳増さんの言う「正々堂々」は、一般的な正々堂々とは、少々ニュアンスが違っています。元は孫子の兵法にある言葉(「正正の旗を邀ふる無く、堂堂の陣を撃つ無し」)で、「徹底的に準備を重ねて、相手の目に正々堂々とした構えに映るまでに自分を高めれば決して負けない」というほどの意味。正しいやり方を真摯に学び、準備が整わないなら退却する勇気も持て。それが徳増さんが説いた「正々堂々」です。
この姿勢で臨めば、海は怖いものではありません。子どもたちを海に導く指導者を育成する事業に、私も正々堂々と微力を尽くす所存です。

山崎 達光

ヨット事始めのころ。

山崎 達光

左: 海洋アカデミーの開校式で参加の小学生に熱く語る。
右: アメリカズカップ出場のためニッポン・チャレンジ艇を送りだす山崎氏。(写真提供:PHOTOWAVE /添畑 薫)


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