2019年12月発行

白雲閣

今から70年前。まだ戦災の跡が深かった池袋の地に、あるとき姿を現した白亜の楼閣― それが料亭「白雲閣」です。リビエラ東京と名を変えた今も変わらぬ“リビエラのおもてなしの原点”の歩み。私たちが大切にする伝統、変化、挑戦、ファミリー。70年の長きに渡り商売させていただいているのは義理人情に厚いお取引先様や、温かくご愛顧くださるお客様があってのこと。感謝に変えて揺るぎなき本質を語ります。

若き事業家が開いた薪炭問屋が源流

堀江浅蔵・マチ夫妻により開業したリビエラ東京の前身「白雲閣」は、1950(昭和25)年1月23日、正式に法人登録をしました。
堀江浅蔵は1909(明治42)年4月1日 福島県棚倉の生まれ。小学校2年で母親と別れ小学校5年生で父とも死別。長男の身でありながら家督を継ぐことがかなわず、尋常小学校を卒業すると、自活の途を求めて、福島県白川の炭商・根本商店で丁稚奉公を始めました。このとき14歳。
持ち前の負けん気でたちまち頭角を表した浅蔵は、仕入れ部長の重職を任されていました。
根本商店では浅蔵に店主一族の娘を娶せる話もあったようですが、浅蔵は独立自営を望んで退職。上京して池袋四丁目の九尺二間の棟割長屋に落ち着いた浅蔵は、斎藤マチと結婚。根本商店から得た退職金60円を元手に、20歳で薪炭問屋「福島屋」を開業しました。
この福島屋が今のリビエラグループのおもてなしの源流にあたります。株式会社リビエラの事業開始(=創業)は、浅蔵が福島屋を起こした1929(昭和4)年です。
浅蔵・マチの若夫婦が自立を果たした当時、折から長い戦争の時代に入って燃料事情が悪化の一途をたどる中、炭は化石燃料に代替する熱源として大いに需要されました。福島屋は、400人の従業員を抱えて大燃料工場を5工場営み、都内城北地域で五指に数えられる燃料問屋に成長していきました。

戦後の混沌を祓う
飲食業への業態転換

1943(昭和18)年、戦況がはっきり劣勢に転じると、すでに妻子ある事業家だった34歳の浅蔵にも召集令状が届きます。事業を妻に託し、横須賀海兵団に応召。
1945(昭和20)年、36歳で敗戦を迎えた浅蔵が目の当たりにしたのは、闇市とバラックの群れが広がる池袋の街並みでした。このとき、浅蔵の事業観は大きく変わったといいます。
戦災で焼け出された人々は、必死でその日の糧を求めている。極度の物不足に、人々は笑う余裕とてない。終戦とは食糧との闘いである。だが、ひとたび食べ物にありつきさえすれば、誰もが安堵し、飛び切りの笑みを浮かべる。食事というものが、人間に及ぼす力はすごい―。
浅蔵は、大きく事業展開していた燃料業から、人の暮らしに欠かせない飲食業への業態転換を決めます。
ただ、こういう場面で多くの人が思い浮かべるはずの大衆食堂を想起しなかったのは、事業家・堀江浅蔵の面目躍如だったといえるでしょう。
浅蔵の経営者としての慧眼は、沸き立つ戦後復興のエネルギーが、今は食うや食わずの人々を、やがて豪奢な宴席に向かわせる―と睨んでいました。

古き名主屋敷を移設した
240坪の楼閣「白雲閣」

燃料問屋の福島屋を売り払い、用地240坪を利して構想されたのは、人々が晴れの日の宴を催す瀟洒な料亭。当時、立教大学方面に望めた富士山が白雲棚引く様子から、白雲の楼閣「白雲閣」と命名されました。
このころの池袋を知る人たちは「あるとき突然、立派な建物が建った」との印象を語りますが、それにはもっともな理由があります。敗戦から5年を経ないこの時期、厳しい物資統制が敷かれて16坪を超える新築は建築許可が得られず、浅蔵は総檜造りの古い名主屋敷の移設を思いつきました。リビエラの理念にも続く「古き良きものを大切に磨き上げて次の世代へ」ということです。無論、長野県上諏訪からの移設工事が一夜で済んだはずもありませんが、近隣の方々の目には、いとも鮮やかに映ったのではないでしょうか。
こうして開業した料亭・白雲閣は、たちまち評判となり、池袋界隈はもちろんのこと、浅草や日本橋方面からも多くのお客様を集め、盛業を極めました。
近在の文豪・江戸川乱歩氏も御贔屓の筋で、作家仲間や評論家、担当編集者といった文人墨客やそのご家族を100人単位で招いた恒例の大忘年会や宴会を催されていました。大蔵大臣などを歴任した近在の小笠原三九郎氏も常連顧客に名を連ね、大小さまざまな個室や大広間で宴席を設けられていました。
開業から4年目には、隣接地150坪を買い取り、立教通り側に「新館」拡張増設。

大火の痛恨事を乗り越えた
従業員との絆

開業以来、順風満帆といえる歩みを続けた白雲閣でしたが、好事魔多し、「新館」を増設した1929(昭和29)年の12月中旬には、深刻にすぎる痛恨事にも見舞われています。
それは、不慮の漏電を原因とする「旧館」(上諏訪から移設された240坪の名主屋敷のこと)の全焼失。
この火災では、旧館の一室で細々と生活していた経営者家族にも犠牲が出ました。
浅蔵・マチの悲嘆は申すまでもありませんが、白雲閣の予約台帳は、折から忘年会/新年会のご予約で埋まっていました。
「お客様に迷惑はかけられない」心を鬼にして自らを奮い立たせた浅蔵・マチを励まし、支えたのは仲居女中150名、男衆50名の従業員たちでした。不幸中の幸いにして、新館は類焼を免れていました。大火翌日から従業員一丸の奮闘による新館フル稼働で、一切休業することなく、このハイシーズンを乗り切っています。
このときに築かれた従業員との絆「ファミリーの精神」もまた、今に受け継がれる白雲閣のレガシーです。

高松宮殿下御来臨
ラクジュアリーな宴会スタイル

この後、日本社会全体が高度経済成長期に突入。旧館全焼失の痛手を全社一丸の努力で克服した白雲閣は、敷地面積1500坪にまで拡大。
ここに大広間も含めて大小32部屋を設け、城北地域随一の料亭として再スタート。1957(昭和32)年、48歳の浅蔵は、贅を尽くした大宴会場「鷹の間」をオープンしました。 昭和天皇の弟君・高松宮殿下御来臨の栄に浴したのも、この年。
白雲閣の名物といえば庭園の滝。壁に囲まれた敷地に足を踏み入れると、美しい竹林と、鯉が遊ぶ大池。中庭に設えられた滝が水を巡らせ、鹿威しの音を響かせる……。
「池袋界隈に今ほどの車通りがなかったからか、白雲閣からの水音は、外の通り(立教通り)まで聞こえていました」と記憶を辿るのは、江戸川乱歩御令孫の平井憲太郎さん。
滝を愛でつつ湯を浴びてから宴に臨むラクジュアリーなスタイルは反響を呼び、繁栄はさらに続きました。

滝と緑豊かな庭に
知識人が集う会合処

白雲閣は料亭―四季の移ろいを感じさせる日本庭園を囲んだ小間での宴席では、150人ほどもいた仲居女中がお客様のお望みを細かく伺い、厨房で腕をふるう料理人たちに伝えて、最高の味を、最適のタイミングでふるまいました。
仲居女中の心のこもったおもてなしは、至極の美味と並ぶ白雲閣の双璧。その評判は、社会全体が劇的な経済発展を示しはじめた50年代にかけて他の追随を許さず、諸官庁や大企業、著名な文化人、学者……といったハイクラス層の支持を獲得。
池袋駅の喧騒から離れた立教大学前という至便な環境とも相まって、大切な会合を催す場として、連日、満員御礼。「今日は空いてませんか?」とのお客様からの電話に、やむなく近隣のお店を紹介したこともたびたびだった、といいます。

経済成長に伴う発展と
新たな事業への挑戦

1961(昭和36)年、所得倍増を掲げた第二次池田内閣が発足。これからのレジャー志向を見通した52歳の浅蔵は、「湯河原海岸埋立地(吉浜海岸)建設計画」に着手しました。これは国土を増やすことにも寄与する一大レジャーランド構想。浅蔵自らも土木の職人に交わり、12年に渡り埋立工事に励みました。自然相手の工事は難航しましたが、浅蔵64歳の1973(昭和48)年、3万坪の埋立が完成。国道135号線沿いの海岸線、現在、湯河原中学校がある一帯です。

浅蔵の情の深さとその思い出

仕事と家族を愛し、故郷・棚倉への愛にあふれた堀江浅蔵は、1974(昭和49)年他界。享年六十五。「浅蔵さんは、誰にでも愛情深い方でした。われわれ取引先の営業マンにも『外回りで暑かっただろ、風呂でも入っていけ』と言ってくれたりしてね」と、浅蔵との思い出を語ってくださったのは、アサヒビール元専務(現社友)の藤田博さんです。
「私が浅蔵さんに初めてお会いしたのは、昭和40年。私は入社2年目の営業担当でした。そのころアサヒビールは本当に苦しい時代で、営業回りしても門前払いが当たり前。繁華街の池袋で取り扱ってくれたのは、中華料理店などの小さな店2軒と白雲閣だけ。他の2軒は発注といってもわずかでしたが、勢いのある白雲閣はいつも大量発注。浅蔵さんの優しさが本当にうれしかった。
私は他の地域も担当していたのですが、池袋方面を回るのは楽しみでした。浅蔵さんのところに顔を出せるから。私が白雲閣を担当したのは足掛け15年。湯河原の埋立工事現場にも毎年、保冷車を届けに行ったものです」(藤田さん)
取引先の方々からも慕われる浅蔵のふるまいは、早くに親を失い苦しい幼少期を過ごしたこととも無関係ではなかったように思います。豪放磊落な起業家・堀江浅蔵は、いつも弱い者の味方でした。
一方、東日本大震災の際、休売や計画出荷が相次いだ中、リビエラへの納品を欠かさず続けてくださったのがアサヒビール。大変に助けられました。ありがとうございます。
「苦しい時代を支えてくれたところに真っ先に恩返しするのが、アサヒビールの流儀ですから。
実は先日、懐かしくて久々にリビエラ東京を訪ねました。今のスタッフの皆さんのおもてなしも、白雲閣の頃と何ひとつ変わっていなかった。
浅蔵さんの創業の精神は、脈々と受け継がれていますね」(藤田さん)

堀江浅蔵・マチ

創業者 堀江浅蔵・マチ夫妻

料亭だからできた挑戦
もてなしの本質を極める

1980(昭和55 )年ごろは、日本料理には日本酒を合わせるのが当たり前とされていた時代です。新たな食文化普及のため、時代の先駆者として「ワインで会席」と銘打ったイベントを開催。ワインと日本料理のマリアージュを広めました。
また、料亭ならではの挑戦といえるのが、従来型の宴会料理から「会席料理」への切り替えです。これはグルメ志向の高まりに応えたもの。会席料理とは、「温かいものは温かいうちに。冷たいものは冷たいうちに」と出来立てをお客様へ提供する手法です。一品一品をより丁寧につくる会席料理では、80席が限界とあって、あえて部屋をコンパクトにする措置も行っています。それまでの拡大一辺倒の世相にあって、これは勇気の要るアレンジでした。
結果として、時代を先取りする判断であったと考えています。

一人一人に合わせた提案が
白雲閣流

結婚式といえば、純潔を象徴する白―これは挙式スタイルの和洋を問わず、長い間の〝常識〟でした。
しかし現在では、思い思いの色にコーディネートされた〝カラーウェディング〟がむしろ〝常識〟。先鞭をつけたのは、実は白雲閣。1987(昭和62)年のことです。〝自分たちらしさ〟を求めるお客様の声に真摯に向き合った末に、辿り着いた〝オリジナルウェディング〟のアイデアは人気を博し、見学に訪れた方々が、立教通りに長蛇の列をなしたほどでした。
その後も〝トータルコーディネート〟や〝テーマウェディング〟など、常に時代を先取りしてお客様に提案し続け、「ウェディングのリビエラ」という評価もいただけるようになりました。

名を改めても不変の哲学
変化をしながら強くなる

毎年夏季休業を利用して先駆的な改装を行い、また木造躯体の補強をしてきました。「伝統を守りながらも、常によりよい変化を模索する」のが、今のリビエラに続く白雲閣の流儀です。
「古き良きものを未来に残す」という一点において、リビエラは頑固です。しかし、リビエラが守りたいことの本質は、お客様の感動です。本質を守るためには、自らの対応を柔軟に変えることを厭いません。
華麗な施設を備えたハコとしての宴会場である前に、おいしいものを心ゆくまで味わえる料理店であること。それが今のリビエラ東京にも引き継がれる白雲閣の本質です。その哲学は、リビエラ東京と名を変えても、いささかも揺るぎません。
きっとこれから先の時代も。
苦労を重ね白雲閣を創り守り続けた創業者の基盤を繋げ、70年の長きに渡ってここ池袋に存在しリビエラ東京が商売をさせてもらってます。
それは地域の皆様に受け入れられ、義理人情に厚いお取引様に支えられ、またお客様にご愛顧いただいたからに他なりません。
おかげさまで70周年―

白雲閣

沿革

1909年

明治42

4月1日 福島県棚倉町南町、喜蔵、チヨの長男として誕生
小2で母と別れ、小5で父を亡くす

1923年

大正12年(14歳)

棚倉尋常小学校卒業
東北屈指の薪炭問屋 福島の「根本商店」で奉公始める
薪炭部の仕入れ部長を務める

1929年

昭和4年(20歳)

独立するため「根本商店」を退職
退職金60円を手に、上京
「薪炭問屋 福島屋」を池袋4丁目に開業し創業
斉藤マチと結婚

1943年

昭和18年(34歳)

横須賀海兵団 応召
「薪炭問屋 福島屋」は大燃料工場5工場、従業員400名、城北地区5指に数えられる薪炭問屋に成長

1945年

昭和20年(36歳)

終戦を迎える
「終戦は食料との闘い」
応召と終戦により、職業観が180度変わる
「飲食こそわが仕事」
当時16坪以上は建てられず、料理屋に相応しい建物を確保のため、長野県上諏訪で見つけた240坪の2階建て総檜造りの旧豪族御殿を移築

1949年

昭和24年(40歳)

「料亭 白雲閣」開業
富士山の白雲棚引く様子より、白雲の楼閣=「白雲閣」と命名
現在の約4分の1の規模面積

1950年

昭和25年(41歳)

1月23日 白雲閣 正式登記
焼野原とバラックの池袋に出現した240坪の御殿
「白雲閣」は、たちまち評判を呼び、池袋はもとより浅草、日本橋からもお客様が押し寄せ、盛業を極めた

1951年

昭和26年(42歳)

150坪を買い取り新館を増築(立教通り側)

1953年

昭和28年(44歳)

大作家・江戸川乱歩氏や小笠原大蔵大臣らもご贔屓節で、宴会をいつも催していた

1954年

昭和29年(45歳)

一般の宴会に加えて冠婚葬祭業(結婚や精進落とし)の会食も人気を呼んだ新館が完成し、オープン12月大火により240坪の旧館はほぼ全焼
新館で翌日から営業を続けた

1956年

昭和31年(47歳)

再建に奔走し、1500坪に拡張
滝と庭園を施し大広間を含めた大小32室の料亭として再スタート
仲居・女中150名と男衆50名のスタッフを抱え繁栄を続けた

1957年

昭和32年(48歳)

鷹の間がオープン
高松宮殿下御来臨

1961年

昭和36年(52歳)

所得倍増計画を掲げた「第二次 池田内閣」発足
新楽天地「湯河原海岸埋立地(吉浜海岸)」建設計画着手
今後のレジャー思考を見通した

1964年

昭和39年(55歳)

おもてなしと立教大学前の至便な環境が、大切な会合処として連日満員御礼

1973年

昭和48年(64歳)

3万坪の湯河原海岸埋め立てが完成

1974年

昭和49年

8月30日 堀江浅蔵 他界

1980年

昭和55年

日本料理から「会席料理」に切り替える
「ワインで会席」新しい食文化普及に務める(2018年まで毎年開催)
料理がおいしいところと評判
毎年8月にはバンケットや各フロアを順次改装
時代を先取りして徐々に人気を博した

1985年

昭和60年

新卒者採用を開始
フレンチスーシェフが日本料理と文化を学ぶため来日し受け入れる

1986年

昭和61年

日本初のフローリングのバンケットとして大広間を改装
爆発的な人気となる

1987年

昭和62年

時代はバブル景気となり、各種宴会の客数も増加
婚礼も1000組に達した初めての洋間「鳳来の間」が完成
それに併せての演出や料理、装花などにも力を入れ、全く新しいオリジナル披露宴として人気を博す

1989年

平成元年

9月3日 ザ・リビエラカントリークラブ科(RCC)受け継ぐ

1997年

平成9年

狂言師野村万作氏、文楽 吉田文雀氏、新内 節鶴賀伊勢太夫氏ら人間国宝を招聘し、「邦楽と食文化(会席料理)」を披露するイベントを開催

1999年

平成11年

チャペル「アンの家」完成

2001年

平成13年

8月「ガーデンヴィラ」改装

2003年

平成15年

3月 ガーデン誕生
8月 「マンダリンヴィラ」へ改装
   「ザギャラリー」へ改装
   ケーキ工房新設
   オリジナルウェディングケーキに着手

2004年

平成16年

1月23日 「シーサイド リビエラ」をリビエラ逗子マリーナに開業
    「シーサイドチャペル」と「アクア」の2バンケット体制で営業をスタート
    「20歳のフェスティバル」イベント継続開催

8月 池袋:「アヴィニヨン」へ改装

2005年

平成17年

7月 逗子:「リビエラプラザ」へ改装
「シーサイドカフェ」「Rショップ」「ケーキ工房」「フラワー工房」「写真スタジオ」「列席控室」「新規・打合接客スペース」完成

9月 逗子:「クリスタルヴィラ」「ベイショア」オープン

2006年

平成18年

4月 池袋:「クリスタルチャペル」グランドオープン
7月 「リビエラ青山」を南青山に開業
8月 池袋:「ガーデンヴィラ」改装

2007年

平成19年

フォト事業を内製化
8月 池袋:「レイランディ」へ改装、逗子:「ZUSHI FES」初開催

2008年

平成20年

銀座ARMANI とWEDDING で提携
8月 池袋:「モダニカ」へ改装、逗子:「マリーナテラス」オープン

2009年

平成21年

8月 池袋: 「マンダリンヴィラ」「ギャラリーオアシス」へ改装、青山:「アネックスレガーレ」オープン

2010年

平成22年

1月 池袋:「リビエラ東京」へ屋号変更
8月 池袋:「バルコニースイート」へ改装

2012年

平成24年

上海松鶴楼との業務提携
4月 逗子:「BLUE VISTA RIVIERA」グランドオープン
6月 青山:リビエラ北里研究所メディカル サロン開業
9月17日 湘南エコロジータウン発表会・海の駅認定式

2013年

平成25年

5月 上海:「RIVIERA 松鶴楼」グランドオープン
6月 池袋:「リビエラカフェ グリーンスタイル」オープン

2015年

平成27年

7月 逗子:RON HERMAN と業務提携
   「RIVIERA WEDDING Ron Herman」がスタート
   同時に「Ron Herman cafe」オープン
   アパレルのRon Herman も同時オープン

2016年

平成28年

10月 池袋:「リビエラ東京」リオープン

2017年

平成29年

9月 池袋:コスモバイタルとの業務提携
10月 池袋: カフェに湘南ビーチFM サテライトスタジオ誕生
池袋:FOREST JAZZ スタート

2018年

平成30年

1月 池袋: 「グリーンスタイルカフェ」にてグルテンフリーのパン販売スタート


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