2020年6月発行

藤田 博

アサヒビール元専務 藤田 博さん

アサヒゴールド

東京の人々がアサヒビールを
知らなかった頃

食を通じたおもてなしで、集う人々の心をつなぐ。それは70周年を迎えたリビエラ東京の前身「白雲閣」の昔から続く当社事業の〝本質〟。飲食業であればこそ、食品業界の皆様に支えられて今日があります。
アサヒビール元専務(現社友)の藤田博さんは、創業者・堀江浅蔵の時代を知る取引先担当者のひとり。「堀江社長は豪放磊落な古武士的な感じで、大変決断の早い、人の心を掴む優しい方と思いました」
大阪吹田で生まれた朝日麦酒は戦後の財閥解体により関東にも進出することになり、藤田さんが入社された昭和40(1965)年頃は、東京の飲食業界でアサヒビールを扱うお店は、多くなかったそうです。
「池袋周辺のお得意先は、中華料理店と酒販店が1軒ずつ。これでは埒が明かないと、この界隈でいちばん大きくて、格式の高いお店―白雲閣―に飛び込んだわけです。当たって砕けろという気持ちで訪ねたのですが、堀江社長は気さくに会ってくださったばかりか商談に乗って頂き以来、当社の大きなお得意先となりました。以後永年に渡り信頼関係を続けております。
足を棒にして営業回りした甲斐もなく門前払いが続く。白雲閣に向かうと、決まって『なんだ、また断られたか、仕方ない。くさるなよ』と励ましてくださった堀江社長は、面倒見が良く弱い者の味方でした。他の地域も担当していましたが、池袋に行くのが楽しみでした。勢いのある白雲閣は当社にとって超大型消費母体であったし、堀江社長にお会い出来るから。社長のご意見を聞くことが楽しみでしたし、今でも深く尊敬いたしております」

人間味と心意気の
お付き合いは今も

その頃の白雲閣には下足番がいて、お客様をまずは大浴場にご案内しました。滝を愛でつつ、ゆったり湯を楽しんでから宴に臨むという小粋なスタイルです。「夏の盛りにお訪ねすると、風呂に入っていけとおっしゃる。仕事中だからと遠慮をすると、そんな汗まみれで次の営業先に行けないぞとタオルを渡されたことを思い出します。汗といえば、湯河原の開発事業の折には、大汗をかきながら陣頭指揮をとられた堀江社長のもとへ、保冷車で陣中見舞いを届けたことがありました。さすがビール会社だと破顔一笑……人間味に溢れた方でしたね」
時が下って東日本大震災の際、休売や計画出荷が相次いだ中、リビエラへの納品を欠かさず続けてくださったのがアサヒビール社でした。堀江が世を去り、藤田さんが第一線を退かれた後も、心意気に満ちたお取引をいただいています。多謝!


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