2020年9月発行

黒岩 祐治

リビエラ逗子マリーナ・リビエラシーボニアマリーナを展開し、葉山港の指定管理者も務めるリビエラにとって、神奈川県は格別の地。ビジネスに留まらず、地域のよき一員でありたいと願い、社会貢献活動にも積極的に参与。県内各自治体の首長の方々とも、折々に意見交換を重ねてきました。現県知事の黒岩祐治さんは、もちろんその筆頭。今回のリビエラインタビューは、黒岩知事の執務室をお訪ねしました。

インタビュー:渡邊華子

神奈川県知事

黒岩 祐治

Kuroiwa Yuji

1954年兵庫県神戸市出身。早稲田大学政治経済学部卒業。大卒後、フジテレビジョンに入社。スポット営業部を経て報道局に移り、取材記者、ディレクターを務めた後、「FNNスーパータイム」でキャスターを担当。以後、同局の顔として、報道番組のメインキャスターやワシントン支局特派員等を歴任。2009年、55歳のときに同局を退職し、国際医療福祉大学大学院教授に着任。2011年 神奈川県知事選挙に無所属で立候補して初当選。現在3期目。放送文化基金賞、日本民間放送連盟賞など受賞多数。

〝異例の短期決戦〟を
決意させたもの

― 黒岩祐治知事は、言わずと知れた元・テレビ番組の人気キャスター。政治に鋭く斬り込むジャーナリストから、県政の重責を一身に担う知事への転身は、初出馬初当選の当時、神奈川県のみならず、世間を大いに沸かせました。

黒岩: 神奈川県知事に初めて選んでいただいたのは、2011年4月10日の統一地方選でのことです。再選確実といわれていた現職(前任の松沢成文氏)が、選挙告示まで20日余りというタイミングで東京都知事選への鞍替え出馬を表明したために、突然、私に県知事選への出馬要請が来たのです。最も強力に説得してくださったのは、当時自民党県連会長だった菅氏(現総理)でした。
そのとき私はテレビ局を退職して、フリーのキャスターをしながら大学院で教鞭をとっていました。この選挙に推されることなど予期しておらず、私にとっても降って湧いたような話でした。
唐突すぎる要請でしたが、受けて立つことを決めさせたのは、このすぐ後に発生した東日本大震災です。テレビキャスターとして、ずっと私がテーマに掲げてきたのは〝いのち〟でした。多くのいのちが失われてゆく中、人々の生命と幸福な暮らしを守る首長という職に就くことを求められているのは、「天の声」だと思いました。そこで、立候補を決断しました。

― 告示のわずか8日前に出馬表明。当時の民主党県連、公明党県本部の推薦も得て、〝異例の短期決戦〟といわれた選挙戦を制し初当選。現在3期目をお務めです。

〝薩摩隼人〟になれと
教え込まれた少年時代

― 報じる側から報じられる側に転身した黒岩さんですが、早稲田大学に学んだ若き日は、「雄弁会」で鳴らした名うての弁士。早大雄弁会といえば、5人の総理大臣はじめ有力議員を多数輩出する〝政治家への登竜門〟です。
つまり、黒岩さんの政治への志は、学生時代から?

黒岩: 子どものころは〝薩摩隼人〟になるんだ!と思っていました。

― 薩摩隼人……ですか?お生まれは神戸ですよね?

黒岩: 父が鹿児島出身なんです。戦前世代ですから、薩摩の気風をもろに受け継いでいるわけですよ。実に厳しい父親で、礼節と利他公益の精神をやかましく教えられました。身を捨てて世のため人のために働け。それが薩摩隼人だ、お前にもその血が流れている。そう刷り込まれて育ちました。
公共に尽くす職業とは、すなわち公職です。東大を出てキャリア官僚になり、ゆくゆくは政治の世界に進む……そういう一種〝前時代的〟なエリート主義が、わが家の価値観でした。

― それで、父上の期待に応えて、東大進学実績NO.1の灘中学・高校にご進学。

黒岩: まあ、そのとおりなんですが……父の〝刷り込み〟どおりに運んだかといわれたら、そうは問屋が卸さなかったわけです。
子どものころの私はいわゆる優等生タイプで、自分の強みは「ペンと弁」と思っていました。書くことと話すことですね。「僕が話すと、みんなしっかり聞いてくれる」と感じて、自惚れていたんですね。

― 未来の人気キャスターの片鱗ですね。

黒岩: 灘という学校では、ほとんどの生徒が東大や医学部をめざします。たとえ現役では失敗しても、たいていの者が次の年には目標を叶えるんです。ところが私は、2年浪人しても東大に受からなかった。
一緒に上京した仲間たちが大学生活を謳歌している中での浪人生活。しかも2年間も。このときは本当に苦しかったですね。とにかく堪えるしかなかった。高校では生徒会長を務めて、同級生の中でも目立った存在だったから余計にきつかったですね。

― 何でも器用にこなす優等生が、初めて味わった挫折感……?

黒岩: 自分だけが周りから取り残される辛さを知ったのは、今にして思えば、大事なことでしたね。
SDGsの基本理念の中に「誰一人取り残さない」というのがあるでしょう? 高慢な優等生のままでいたら、それにも共感できたかどうか。

黒岩 祐治

今も幼少期の面影をしっかり留めているような……(?) 右は“薩摩隼人”の父の薫陶を受けて、何でも器用にこなす“優等生タイプ”だったという灘中時代。

ミュージカルと雄弁会の
二足の草鞋

黒岩: 実現したくても、できないことがある。そこから学ぶことは大きかったです。それを知った浪人時代のおかげで、精神的にタフになりました。
〝滑り止め〟で合格した早稲田に行くのは、やっぱり気が重くて。ところが入学してみたら、それまでの価値観を一変させるような出会いが待っていました。それがミュージカル研究会。
たまたま覗いたサークルですが、ミュージカルの魅力に取り憑かれて、自ら舞台で歌って踊ってとやっていました。このサークルで出会った仲間たちはそれまでの友人たちとは違うタイプの人ばかり。それはそれで楽しかったんですが、それだけでは物足りなくて、〝大物政治家多数輩出〟の雄弁会の門も叩きました。
異質な2つのサークルを掛け持ちして、愉快なキャンパスライフを送ったわけです。早稲田に進んでよかった……今にして思えば、ですが。

黒岩 祐治

多くの視聴者の人気を集めたキャスター時代。

「永久不出馬宣言!」をして
就いた仕事

― 大学卒業後、フジテレビにご入社。やはり政治記者をめざされたのですか?

黒岩: そうではありません。むしろ、政治とは関係ない仕事がしたいと思い、テレビ局を選んだんです。
というのは、雄弁会の活動を通じて、政治というものの嫌な面を垣間見たような気がしたから。早大雄弁会は決して〝政治家養成所〟ではありませんが、学生のサークルなのに派閥があるんですね。そして派閥に分かれて幹事長ポストを奪い合う。古き時代の自民党みたいな感じ。権力闘争です。私はそういうのが大嫌いだったんです。おかしなことがあればそれを正し、世のため人のために仕事をするのが「政治」だと思っていたんですが、現実の政治の世界はそういう権力闘争に勝ち抜かなければ、「政治」はできない。そういうことが分かって、政治家志望をやめることにしたんです。
雄弁会の卒業文集でも「永久不出馬宣言!」と書きました。これは31年後に〝宣言違反〟になっちゃいましたが……。
テレビ局での最初の配属先は、想定外の営業部でした。広告枠をスポンサーに買っていただく仕事です。

― 売上をあげてお金を稼ぐセクションですね。社会人1年生でシビアなビジネス現場に身を置けたのは、貴重な経験だったのでは?

黒岩: そう思いますね。

〝報道の力〟を実感
救急救命士の法制化

― 入社4年目で報道局に移られて華々しいご活躍の始まりです。

黒岩: 華々しいなんて、とんでもない。政治部、サツ回り、夜討ち朝駆けの取材記者から始まって、ディレクターもやりました。キャスターとして画面に映るようになったのは、入社9年目。ニュース番組『FNNスーパータイム』土日版のアンカーマンに起用されたのが最初です。
土日版ですから、テレビの出番は週2日だけ。「他の曜日は何をしててもいいぞ」と言われたので、自分で企画、取材、編集、放送まで手掛けるキャンペーン報道をやりました。そうして取り組んだのが〝救急医療〟というテーマです。
独自に始めたこの取材で、パラメディックという言葉を知りました。医師に準じたスキルを持ち、高度な救命・救急医療処置を担う救急隊員のことですが、米国では資格化されて大いに成果をあげていました。それに比べ、日本の救急隊は医療行為はできず、無資格者でもできる応急処置しか許されない消防士。そのために、助かる人のいのちが救急車の中で、たくさん亡くなっていたんです。
この問題を提起する救急医療キャンペーンは大きな反響を呼んで、丸2年間継続。それが契機のひとつとなって、救命救急士法の制定につながったのです。そして、放送文化基金賞や日本民間放送連盟賞などをいただきました。
報道が世論を喚起し、社会の仕組みを変えた事例と評価されたのです。政治家でなくても、世のため人のために尽くすことはできる!政治家にならなくても「政治」はできる、報道の力を実感した瞬間でした。

知事執務室

知事が大切にしている3つの言葉が額に飾られている
神奈川県庁の知事執務室。

黒岩 祐治

〝生命の循環〟や
〝未病〟を意識する

黒岩: その後、司会を担当した日曜朝の『報道2001』は政治討論番組でしたが、それ以外に、私がプロデュースキャスターを務めたのがドキュメンタリーシリーズ「感動の看護婦最前線」。これは半年に一回の放送でしたが、高視聴率にも恵まれ、12年間、続きました。ちなみにこの番組も2度にわたって民間放送連盟賞を受賞しています。
この番組でいつもコメンテーターを務めてくださったのが、聖路加国際病院の日野原重明先生でした。あるとき、日野原先生から持ちかけられたのが、なんと〝ミュージカル制作〟。米国の名作絵本を舞台化したいから手を貸してほしいと。私が学生時代にミュージカルをやっていたということはご存知ないのに、何故かそういう話になって。何か見えざるチカラを感じました。
そして、プロデューサーとして奔走することになりました。それがを目指す取組を全県あげて進めています。

― 私たちリビエラグループでも、未病は永遠のテーマです。コンテンツと集う場を持つ我々は食・余暇・コミュニティでお手伝いしていきたいと思っています。
そして、「より豊かな人生」を築いていくための「リビエラ ライフデザイン倶楽部」をこの夏よりスタートさせました。

黒岩: ライフデザイン―人生設計という観点から、健康寿命を延ばし、最期まで健やかに、幸せに長寿を生きるための取り組みに、大いに期待しています。院教授に着任し、医療・福祉と報道の関係をテーマとする研究生活に入られました。
人気キャスターの〝余力〟をたっぷり残した早期退職の裏側には、生命哲学を語る名医たちとの深い交流があったのですね。

黒岩: すべて今に繋がっています。未病とは、健康と病気の間はグラデーションで連続的につながっているという考え方。病気になってから治すのではなく、グラデーションの中を少しでも健康の方に持っていくかが大事です。そのために神奈川県では、食・運動・社会参加を通じて、人々の未病を改善し、健康長寿2000年初演の『葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜』です。この作品も15年間続きましたが、私が「いのち」という言葉にこだわる直接のきっかけになったと思いますね。

― 春に生まれた葉っぱが冬に散るまでの一生を通じて〝命の尊さ〟を描くとともに、散った葉っぱが肥料となって、また新たな生命を育む〝循環〟を教える名作ですね。2006年の公演では、美智子皇后陛下(当時)も観劇されたことが話題となりました。

黒岩: そうこうするうち、父が病に倒れました。余命宣告まで受けてしまって、このときお世話になったのが、未病医学研究センターの天野暁(劉影)所長。
天野先生の漢方治療で奇跡的に持ち直したのですが、この経験から漢方の哲学「未病」に関心を寄せるようになりました。

―「55歳を機にサラリーマン生活に一区切りをつけることにした」と担当番組を降板し、ほどなくフジテレビを退職。国際医療福祉大学大学院教授に着任し、医療・福祉と報道の関係をテーマとする研究生活に入られました。
人気キャスターの〝余力〟をたっぷり残した早期退職の裏側には、生命哲学を語る名医たちとの深い交流があったのですね。

黒岩: すべて今に繋がっています。未病とは、健康と病気の間はグラデーションで連続的につながっているという考え方。病気になってから治すのではなく、グラデーションの中を少しでも健康の方に持っていくかが大事です。そのために神奈川県では、食・運動・社会参加を通じて、人々の未病を改善し、健康長寿を目指す取組を全県あげて進めています。

―私たちリビエラグループでも、未病は永遠のテーマです。コンテンツと集う場を持つ我々は食・余暇・コミュニティでお手伝いしていきたいと思っています。
そして、「より豊かな人生」を築いていくための「リビエラ ライフデザイン倶楽部」をこの夏よりスタートさせました。

黒岩: ライフデザイン―人生設計という観点から、健康寿命を延ばし、最期まで健やかに、幸せに長寿を生きるための取り組みに、大いに期待しています。

黒岩 祐治

インタビューは3密を避けて、マスク着用で行われました。

黒岩 祐治

「“エコロジータウンリビエラ逗子マリーナ”プレス発表会」・「“しょうなん・逗子マリーナ海の駅”認定式典」にてご登壇されました。

神奈川に人やモノを
引きつけるマグネット

― 黒岩さんが「永遠のテーマ」とする〝いのち〟といえば、神奈川県には、多様な命を育む海があります。黒岩さんご自身も、ミュージカルと並ぶ「趣味」として、ダイビングをあげています。

黒岩: ライセンスを取得したのはフジテレビに入社した年ですから、かなり昔のことになりますね。ただし、本格的にダイビングを楽しむようになったのは、実は知事に就任してからなんです。
神奈川の海を深く知りたいと思いましてね。県内ほとんどのダイビングスポットを潜りました。
その体験を通じてわかったことは、神奈川の海の美しさです。魚もたくさんいる。そのうえ、私たちの海には、四季の変化がある。守らなければと思いました。

― 一度親しめば大切にしたくなるのが自然環境です。海に限らず、山も空も、そして生命も。私たちの《リビエラ未来創りプロジェクト》は、そうした取り組みです。
さらにもうひとつ。この春、歴史的名艇「シナーラ」が、ついに神奈川の海に再進水を果たしました。

黒岩: おめでとうございます。世界の宝である〝海の貴婦人〟が、この神奈川にあるということは誇らしいことです。「古き良きものを大切に磨き上げて次の世代に残す」というリビエラの理念には、かねて共感していました。
シナーラも、人と文化・世界を結ぶ〝マグネット〟になるでしょう。
私は県知事就任以来、「いのち輝くマグネット神奈川」と銘打つ取り組みを推進してきました。〝マグネット〟とは、引きつける力。人やモノを引きつける魅力あふれる神奈川を創り上げるための様々な取り組みです。スマートエネルギー構想の推進や、災害に強いまちづくり、次世代を担う心豊かな人づくり、人を引き付ける魅力ある地域づくりなど、多数の政策を進めています。

― リビエラも、薄膜太陽光発電の導入や電気自動車の積極活用で、県と足並みをそろえています。3月に開業したマリブホテルでも、災害時の対応力を強化した「V2Bシステム」を導入しました。

黒岩: 先駆的な取り組みに、県と共に歩んでくださることは本当にありがたい。
これからも、ぜひ力を貸してください。


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